イエス・アイ・ビリーヴ

以前、青山にある小さなギャラリーに行ったとき、偶然オノ・ヨーコの作品をみかけた。その作品は真っ白な背景に「I LOVE U」と彫られ、その文字は赤を貴重にさまざまな色が混沌と織り交ぜられていた。

「愛」というものをテーマにするのなら、ふつうはもっと情感があふれ出るように創られることが多い。だが、彼女の作品はそれがなく、まるでどこかの壁にさらっと書き込んだような軽やかさがあった。それでいて文字には深い愛情がにじみでて、軽すぎるということもない。絶妙なバランスを保ちつつ、愛というものを表現しているというところだろうか。


愛という言葉の裏にはさまざまな感情がひしめいている。自分が相手を大切にすればするほど、相手を自分のものにしたいという感情が起こる。そして、その感情が強くなれば、今度は嫉妬したり、思いどおりにならない相手に苛立ったりするようになる。

もしも、その感情が相手と同じなら、それほど大きな問題は生み出さないだろう。だが、相手と感情の強さが異なれば、私たちには目を覆いたくなるような悲劇が待っている。互いに猜疑心に満ち、怒り、憎しみ、自分を傷つけた相手に復讐さえしたくなる。そのとき報われない愛情は、この上ない凶器となる。

だが、それは本当の愛情ではない。愛はいつも一方向で成り立つものではなく、常に相手の感情があってこそ成り立つものだ。自分の気持ちが相手の気持ちよりも強ければ、自分の気持ちを抑えて我慢する。相手を本当に慈しんでいるのなら、相手を信頼して、猜疑心を持つようなことはしない。相手が自分と同じくらい想っていないと分かったなら、相手が自分の気持ちと同じようになるまで待ってあげればいい。愛は互いの気持ちがあって、初めて成り立つものなのだから。


こういうことは大人になれば誰でも分かってくるものだから、何も僕が仰々しく書く必要もないだろう。だが、僕の心の中にはまだ大人になりきれない、わがままな自分がいる。

すべての悲しみの原因を他人になすりつけて、ただ言葉でごまかそうとする自分。単なるひとりよがりの想いを、本当の愛だと語る自分。相手をただ大切だと語るだけで、実は相手を傷つけるだけの、どうしようもない自分、、、、、、。


ときどきそんな自分から目を覆いたくなるけれど、そんなことをしていてはいつまでたっても何も変わらない。

自分の足りないところをもっと受け入れていこう。いつも相手を疑うことなく、信じる心を持ち続けよう。そんなことが、僕にはきっとできるはずなのだから。