「出会い」と「別れ」

人と人との「出会い」というものは、じつに不思議なものだ。こちらが求めているときには誰も現れてくれなかったり、反対に何も求めていないときに誰かが現れたりする。

そして縁あって出会った人たちとも、こちらが望んでいてももほんの短い時間で途切れてしまったり、反対に何も望んでいなくてもなんとなく続いていったりする。

そんなことを考えると、すべての「出会い」も「別れ」も人の意思にかかわりなく、どうやら「運命」という不確かな糸によって操られているようだ。

昔の人はそんな道理を知っていたのだろうか。むやみやたらに運命に逆らわず、ただじっ偶然の糸に身をまかせていたように思う。


ゆく水に数書くよりもはかなきは 思わぬ人を思ふなりけり  (古今・恋)

(流れゆく水に数を書くということよりはかないことは、自分を思ってくれない人を恋しく思うことであった。)


この歌を書いた人は、おそらく胸が苦しくなるほど人に恋したのであろう。そして、何らかの事情ではっきりと自分の恋が報われないものとわかったときに、この歌を詠んだと思われる。

そこには出会いを成就させようとする意志も、また新しい出会いを求める思いも感じられない。そこには、恋する人が自分を想ってくれないことを受け止めて、ただじっと報われない運命に身をまかせる一人の男の姿がある。

人と人との「出会い」は、自分が思うようにはならないもの。あまりにも、出会いの機会が増えてしまった私たちは、ときどきそんなことすら忘れてしまう。そして、ついついすべてが自分の思い通りにいかないことに苛立ってしまうのだ。


うとくなる人をなにとて恨むらむ 知られず知らぬ折もありしに  (新古今・恋)

(だんだんと疎遠になってゆく人を何だって私はうらみに思うのだろう。もともと自分も相手に知られず、相手も自分も知らない時もあったのに。)


この歌を詠んだ人は、別れた相手の人を恨みつつも、その自分の心を断ち切ろうとしている。その心の内には、人と人との「出会い」も「別れ」も運命であり、誰も逆らうことなどできないというあきらめにも似た想いがあるようだ。