死の影

anotherwork2006-04-04

その日は雨だった。私はほんの少しいつもより遠いところで写真を撮ろうとして、いつのまにか見知らぬ街に迷い込んでいた。周囲に人はいなく、雨が路面を打つ音だけが静かに聞こえていた。目の前には見覚えのない、曲がりくねった薄暗い坂道がどこまでも続いている。

私はしばらく坂道をのぼり続けて、それからふいに十字路を右へと曲がった。すると、薄霧の中に西洋風の建物物がぼんやりと見えた。どうやら教会らしい。私はそのまままっすぐに歩いてその門をくぐった。敷地内にはだれもいなく、妙にがらんとした雰囲気だった。私は正面にあった欄干まで突き進んで、ぼんやりと空を見上げてみた。空には降り注ぐ雨がうっすらとかかる霧の中を通り抜ける軌跡が見え、その軌跡をゆっくりたどると、何か白いものにぶつかって雨は地面に滴り落ちていた。

霧間からぼんやりと見えたのは、十字にかたどられた一つの墓だった。目を凝らしてよく見てみると、その背後には無数の墓石の山が折り重なるようにして連なっていた。私はすっかりと墓に取り囲まれていたのだった。

しかし不思議と不気味な感じはしなかった。私はまるで、どこかの異国へと来てしまったように感じて、カメラのシャッターを押した。寒さでふるえる手から、シャッターを切る振動がしびれるように伝わってきた。

 
そのときに写した写真はちょうど二週間ほど経ってから私の手に届いた。モノクロ写真で写された墓地の光景はどこか異様なものになり、私が思い描いた以上のものがあった。

ここに写されているもの―――それは、この世界の現実に存在していたという「生」の証である。この墓の一つ一つに眠っている人たちは遠い昔の現実で今の私と同じように誰かと話し、泣いたり笑ったりしていた。そして、その人生はある日突然打ち切られてしまったのだ。

 私は彼らと同じように、ある日突然「死」がやってくる日を想像してみる。それはごく自然な日常的な日で、何の変わりのない穏やかな日だ。私は今日もまた当然のように生きられると思って何気なくその日を生きている。しかし、たとえば思いがけない心臓発作、あるいは交通事故が起こる。私は意識が朦朧とし、暗い淀みの中へ沈んでいく直前に、自らが死の淵へと消えていくことを悟る。

そのとき――私は目を閉じて想像してみる――私は自分の人生に納得することができるだろうか。自分自身が人生を燃焼して生きられたと本当に実感できるだろうか?そう考えて私は身震いする。

今の自分は、自分の好きなことをめいいっぱいやっている。それなりに充実感はあるし、とりたてて後悔することもない。若いときのように憂鬱なときも、何かに迷い苦しむこともなければ、自分が進むべき道もやらなければならないことも、昔に比べればうんとはっきりしている。

それなのに、私がいずれやってくるであろう「死」に恐れおののくというのは、まだ何か足りないということなのだろうか。それとも、安定した日々を過ごすうちに、大切な何かが失われてしまったということなのだろうか。
 
そう考えて私はもう一度写真を見つめてみる。霧の中にぼんやりと浮かびあがるように立っている墓の群れ―――。それはもはや誰かの「死」ではなく、私の「死」でもある。やがて私には「死」が訪れるだろう。それはいつやってくるのかはっきりしないとしても、いずれ確実にやってくるのだ。

私は再び目を閉じて自問してみる。自分はそのとき本当に人生を燃焼して生きられたと実感することができるのだろうか、と。