哀愁

anotherwork2006-04-06

空き時間に近所にある土手を歩いていたら、一人の老人の姿が目にとまった。ベージュのソフト帽をかぶったその老人は、土手沿いの階段に腰掛けて河川敷で行われている草野球をぼんやりと見つめているようだった。天気がよい日はこんなふうに草野球を観戦している人が多いものだが、その老人の背中はどこか淋しそうでも、哀しそうでもあった。私はそのとき何か言いようもなく胸にせまってくるものを感じて、手にしていたカメラのシャッターを切った。

それから何週間か経ってから私はふとそのときの老人のことを思い出すことがあった。あの老人はなぜあのとき、あの場所にいたのだろう?あのときいったい何を考えていたのだろう?あの老人の背中に自分はなぜあれほどまでに自分を惹きつけたのだろうか?疑問はとめどなく湧き上がってくる。そんな答えのない問いを煎じ詰めて考えてみたところで、何にもならないことは知っているが、それでも私は勝手な想像を繰り返さないわけにはいかなかった。

あの老人は身なりや風貌からして、それほど裕福な暮らしをしてきたわけではないだろう。長い人生の中を一日八時間ほどの、いやもっと多くの時間を労働に身を費やし、せわしい日々を必死に過ごしてきたのではないだろうか。それも結婚してからは子供たちの面倒を見ながら、夫婦共々でささやかな幸福を糧に長い人生をなんとか生き抜いてきた。―――もちろん、私のこんな想像がどこまで合っているかは分からない。もしかしたら、全く見当はずれのことを想像しているのかもしれない。だが、自分の人生を振り返ってみても、人生というものはどちらかというと苦労することの方が多いものだ。そう考えてみると、私のこんな想像もあながち間違っているとはいえまい。

私の想像はさらにふくらむ。あの老人は今たった一人きりで暮らしている。長年つれ添ってきた妻に先立たれ、子供たちはとっくに親元を離れ、それぞれ家庭を持って暮らしている。子供たちには年に数回顔を合わせるが、それ以外で連絡を取り合うことはない。

若い頃からずっと続けていた仕事は退職し、今はその退職金と年金だけを頼りに生活している。長い間、仕事と子育てに追われるような生活だったため、何か我を忘れて熱中できるほどの趣味はなく、そうかといって取り立てて何かやらなければならないこともない。家にこもっていると、どんどん体がなまっていくので、よく晴れた日はなるべく外に出て体を動かすように心がけている。それも特別運動もするというのではなく、ただ家から近所にある土手を歩く程度で、疲れたときは適当な場所をみつけて心ゆくまで休んでみる。どうせ、何かやらなければならないことも、とりたててやりたいこともないのだ。時間はあまるほどある。昔はこんな生活にあこがれていた時期もあったが、今は時間に追われていた毎日が恋しくさえ思う。

よく晴れた温かい春の陽射しを浴びてぼんやりと階段に座っていると、自然と昔のことが思い出されていく。

幼かったときのこと、若く希望に満ちていたときのこと、初めて妻に会ったときのこと、結婚をし初めて子供ができたときのこと、まだ生まれて間もない子供たちのこと、仕事で苦労したこと、家族と過ごした日々のこと……。


私の想像はそこまでである。長い人生を生き抜いてきた人には、もっともっと語りきれない思い出がぎっしりとつまっているかもしれないが、それは私の想像が及ばないところにあるように思える。そして、そんな思い出の一つ一つをふりかえりながら感じることもまた、私の想像を絶したものなのだろう。

後日、できあがった写真をよく見てみると、老人は目の前で行われている草野球を見ているわけではなかった。ただうつろに焦点の合わない風景を眺めているようだった。

私はその老人のことを思い出しては、しょうこりもなくその瞳に何が写っていたのかを考えてみることがある。そしてそのとき老人が感じていたであろう想いをあれこれと想像してみては、その浅はかさを嘆いて深く憂いにまみれたため息を洩らす。