生きる瞬間

anotherwork2006-04-15

写真を撮っていると日常の雑事など忘れてしまう瞬間がある。そんなときは、たとえどんなに厳しい環境であっても頭が真っ白になり、生き生きとした充実感が体の底から湧き上がってくる。そして「生きてる」という実感が体中に駆けめぐっていくのだ。もちろん、そういう体験はそう何度も味わえるものではないのだが、それでも写真を撮っているときには、そんな奇跡ともいえる体験にめぐり合うことがある。


その日、私は雨が降りしきる鎌倉駅の前にいた。休みの日は決まって一人で撮影しに行くのだが、その日だけはと知人から誘われてある撮影会に参加したのだった。撮影会にはNという写真のギャラリーに縁のある人たちが十数人集まり、それからくじを引いて何組かの班に分かれた。私といっしょに撮影することになったのはHさんとMさんだった。二人とも鎌倉へはあまりきたことがなかったので、とりあえず観光地として有名な鶴岡八幡宮へ行くことにした。

雨は最初の頃と変わらず降り続けており、冷たい風が吹き渡っていた。とても楽しく撮影するという雰囲気ではなかったが、それでも私たちはぎこちない会話を交わしながら撮影して歩いた。


鶴岡八幡宮を撮影し終えると、私たちは鎌倉駅へ戻って江ノ島まで行った。そこでもまた激しい雨風が続いていたが、私たち三人はそれでもめげずに、江島神社まで行き、参道をくだった先にあった食堂で食事をした。それから、他の人たちと合流することになっていたが、その時間まで少し時間が余っていた。私たちはとにかくせっかく江ノ島まで来たのだからと店を出たが、この激しい風雨ではどこへ行くというあてもなかった。Hさんが待ち合わせ場所の水族館へ先に行ってみましょうかと言ったが、私はそこですかさず海岸へ行くことを提案した。それまで私は江ノ島を歩いていたときに見かけた海岸と、そこでサーフィンやらヨットをしている人がとても気になっていたのだった。この雨の中、風が強い海岸へ行くことになれば、当然のごとくかなり濡れてしまうので、ちょっとHさんとMさんにはわるく思ったが、私は「撮りたい」という本能的な欲求を抑えることができなかった。

海岸に着くやいなや、私はもうHさんやMさんにはかまわずにずんずん一人海へ近づいていった。そして、沖の方で果敢に荒波に乗ろうとしているサーファーの正面に立ち、望遠レンズを取り出した。フィルムはもうほとんど残っていない。この風雨の中、いちいち交換していることなどできないから、一瞬に賭けるしかないと私は思った。

傘を片手にカメラのファインダーからのぞくと、サーファーの姿がよく見えた。だが、動きが速く、ピントがなかなか合わない。なんとかピントを合わせられても、サーファーが波に乗っているのはほんの数秒間だけだった。私は注意深くサーファーの動きを観察した。すると、彼らが波に乗るタイミングがだんだんとつかめてきた。彼らは後ろを振り向きながらいい波が来るのを待ち、波が来るやいなや大きくジャンプする。ならばその一連の動作を予測しながら、うまく波に乗った瞬間を見計らってシャッターを押せばいい。

ファインダーから、一人のサーファーが背後からやってくる波に乗ろうとしているのが見えた。私はそのサーファーにねらいをさだめ、ピントを合わせた。それが終えるやいなや、そのサーファーはやはり背後からやってくる波に合わせて大きくジャンプした。鮮やかな波しぶきが舞い上がる。「今だ」そう思ってシャッターをきった瞬間、私の目の前は何もかも消えて真っ白になった。そして言いようのない不思議な感覚が私の体をかけめぐった。後ろを振り返ると、Mさんが立っていた。もう行きましょうと言うと、本当にもういいのかとMさんはたずねた。私は無言でうなずいて、少し離れたところで海を撮影していたHさんのところへ歩いていった。

その後、水族館まで行って他のメンバーと合流して撮影をしたのが、その頃にはもう私は疲れはてていた。どうやらあのとき海岸で撮影したときに私は自分の持っている力をすべて使い果たしてしまったらしかった。だが、私は不思議な充実感に満たされていた。写真は出来上がってみなければちゃんと写っているかどうかさえ分からなかったが、それでも私はあの一瞬に全神経を集中させてシャッターをきれたという実感があった。たとえ写真が失敗しても、私には何の後悔もなかった。
                   ☆

帰りの電車に乗る前に、私は撮影会に参加した一人に今日はうまく撮影できたかどうかたずねてみた。その人は首を横に振って、今日は他の人とつながりをつくるために参加したからと言った。私はなるほどそうかとうなずきながら、あのときHさんとMさんを連れて海岸まで撮影に行くべきではなかったと思った。だがすぐに、もしそうすればあの瞬間私が感じたあの生き生きとした感情も決して味わうことができなかっただろうとも思い、複雑な想いにさいなまされるのだった。