楠木亜紀 写真展を歩くマーティン=パー写真展

マーティン・パーは、消費社会の文化をシニカルな視点で追求した写真家。彼のカラー写真は、安っぽいプラスチックの原色の色彩や、合成着色料の食べ物の色彩、リゾート地を演出するけばけばしい色彩をとらえ、その日常の凡庸さにしたたかな鋭い視線を向けているという。

そのパーについて楠木亜紀は、本文の最後で「シニカルさ」よりも、彼の写真が当時の広告やファッションに結びつき、積極的に自己の作品に取り入れえたことを指摘している。

しかし、たとえそうであったとしても、彼の写真が消費社会という巨大な社会構造のなかで創作され、彼自身もまた消費社会の一員として生きていたことは否定できないだろう。彼のもつ「シニカルさ」とは、むしろ彼自身への皮肉であり、同時に社会全体へのアイロニーという二重の構造を内包したものだったのではないだろうか。

ファッションもまた消費社会というひとつの社会構造から生み出されたものに過ぎない。いかに彼が社会にのみこまれずに自らのオリジナリティーを築こうとしても、結局は消費社会の産物へとなってしまう。

マーティン・パーの写真は見事に70年代のアメリカを写しとっていると言えるだろう。それは消費社会が歩んだひとつの時代の軌跡として評価できる。しかし、それ以外にわれわれはパーの写真にどのような評価を与えればいいのだのだろうか?

それはアートであり得るか?それとも時代を反映したファッションの歴史、広告の記録としての価値があるのだろうか?
パーの評価に判断がつかなかったとき、われわれは決まりきったように「シニカル」という言葉を使うだろう。結局、彼への評価はそれ以上でもそれ以下でもないのだ。